Turn the page

広告の裏にでも書くようなことを書くブログですね。

«|2017-09|123456789101112131415161718192021222324252627282930|»
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


あれは........なんだったのだろうか........?。あまりにも強烈な閃光と爆風とともに、数メートル先の通りを歩いている母と子の体から、煙みたいなものが上がったと思ったら、一瞬のうちに跡形もなく消えてしまった.......。まるで、忍者が煙とともに消えたみたいに.....。


1945年8月6日、広島市街の爆心地のわずか800mで被爆したにも拘らず、倒れた壁に守られた形になって奇跡的に生還した老人が語った、恐るべき体験の話である。
去年か今年の読売新聞か、東京新聞の企画での話であるが、あまりの恐ろしさに、頭から離れなかった。

そんな事が起こるなんて、SFの小説や漫画の世界の話だけかと思った。
改めて、広島の原爆の威力というものを知った。同じように、階段に影だけ残して消えた人間の、影そのものを調査したところ、人間のものらしいDNAを確認したという話も聞いたことがある。

時のアメリカ大統領は、F・D・ルーズベルトの死後引き継いだ、ハリー・トルーマン。彼は、ネバダ州の実験場でのこの世のものとは思えないほどの原子爆弾の威力を知り、ひどく感嘆した。もちろん、これを使うことにためらうことはなかった。来る日本本土侵攻作戦”オリンピック作戦”でのアメリカ軍の損害は、恐るべきものとなる公算が大だったからだ。自軍の損害をひどく嫌うアメリカ国民は、先の硫黄島の激闘で、2万人以上の死傷者が出たことに対して、かなり叩いた。

原爆を搭載した、エノラ・ゲイ号の機長、ポール・ティベッツ准将は、自分が、人類最初の原爆投下を命じられて、自分の行為が、自軍の勝利を確実なものとすると聞いて、名誉と誇りを感じていた。クルー全員そう感じていた。
彼は、原爆投下後の広島の事を、被爆者団体の人間から聞いても、死ぬまで、自分の行為への誇りと正当性を主張していた。彼は、血も涙もない人間なのだろうか?。
否。彼は軍人だった。彼にあるのは、積極的だろうが、消極的だろうが、
”YES,Sir!
の選択しかない。でなければ、命令拒否により軍法会議に掛けられる。しかも、彼自身が自分の仕事に名誉と誇りを感じていた。当時の感覚と言うものは、現代の感覚であれこれ言うべきではない。


だが、トルーマンが決断し、ティベッツ准将が投下した爆弾は、「死人に鞭を打つ」様な行為だった。
当時の日本は、ポツダム宣言を無視したわけだが、実際は、”静眼”しただけであった。日本に継戦能力がないことは明白だったが、”国体の護持”~要するに、天皇の生存~を確約できなかったことだけが問題だった。ただ、その間もダラダラ戦争は続いていたのである。


アメリカのメジャーリーグでは、大差でリードしたほうが、チャンスを広げようと盗塁をすると、味方のファンから、大ブーイングが浴びせられるという。どういうことか。
「相手の名誉のためにも、これ以上の”損害”を与えるべきではない。」ということである。


トルーマンは、
「軍事施設、工場、陸軍、海軍の兵士が目標。」
とうそぶいたが、実際に落としたのは、広島県産業奨励館(つまり原爆ドーム)の付近の橋である。目標は、一般市民であった


彼の決断に対し、61年後の7月、広島平和記念資料館で開かれた「原爆投下を裁く国際民衆法廷」で、被告ハリー・トルーマン・アメリカ合衆国大統領らに、有罪を言い渡した。
罪状は、
「市民を無差別に殺戮し、国際法の基本原則に違反した」
とある。
トルーマンがいくら言いつくろおうとしても、無駄である。
あの、東京大空襲を指揮した、カーチス・ルメイ大将が、いみじくも言い放った。

「もし、アメリカが戦争に負けたら、私は、戦争犯罪人として裁かれるだろう。」

ようするに、そういうことなのである。






More »



昨日、昭和天皇が昭和50年以来、靖国参拝を取りやめた理由を記したメモが公表された

このメモの持ち主は、昭和天皇が崩御される1年前に宮内庁長官だった、故 富田朝彦氏。富田氏は、昭和天皇の会話をメモに書き留めていたとのこと。その中の1988年4月28日付けのもの。この日は、昭和天皇の誕生日の前日であり、最後に迎える誕生日でもあった。

共同通信が公表したメモの抜粋。

私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白鳥までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ


ほんと、この話がわかったとき、昭和天皇は、実にはらわたが煮えくり返るような思いだったろう。もちろん、昭和天皇にも、戦争責任は、あると、私は考える。それは、本来やってはいけないことかもしれないが、国民の代表たる、内閣の決めた開戦の決定に、ひと言

「よせ。」


がいえなかったことだろうと思う。平時ならそれでもいいが、軍隊の統帥権が、勝手に一人歩きしてしまっている時勢を考えた場合、あくまでも、軍の統帥者たる、陛下本人が ~例え、命を賭しても~ 軍の暴走を止めなくてはならなかった。


正直な話、自分の事しか考えない小泉首相のような人間には、昭和天皇のように、戦前、首相として、国を戦争に導いた東條英機を初めとするA級戦犯、松岡洋右、白鳥敏夫のように、日独伊三国同盟という国家的失策を犯した外交官に、煮え湯を飲まされたような体験がある人間のことは、理解できないだろう。

個人の心の問題。」
で片付けているくらいだから。



彼らがプノンペン市内に侵攻してから数時間後、郊外からの避難民を加え、200万人を数えたプノンペン市民は、まるで、山羊や羊のように追い立てられ、郊外に移動させられた。
そして、誰もいなくなった。


1975年1月1日、クメール共和国(現在カンボジア王国)の首都プノンペンは、すでに、ポル・ポト率いる共産ゲリラ、”クメール・ルージュ”によって包囲されていた。道路はすでに寸断され、包囲下のプノンペンでは、食料などの物資は、船で南ベトナムのサイゴン(現ホー・チ・ミン市)などから運ばれたが、市近郊のメコン川周辺に陣を張った彼らによって、全て阻止。代わりに、数年前に侵攻した(失敗した)南ベトナム軍の持ち物と思われる105mm曲射砲やロケット弾を市内に撃ち込んだ。
クメール共和国首相、ロン・ノル将軍率いる政府軍は、数では、”クメール・ルージュ”を上回っていた。だが、その数は、腐敗しきった軍幹部によって水増しされた(水増しした分の費用を懐に入れるため)数も含んでおり、装備こそアメリカの支援で、まともなものもあったが、練度、戦意、作戦能力は低く、アメリカの支援(ゲリラ地区への爆撃、物資支援など)を受けても、プノンペンの周囲25kmの範囲しか守れなかった。
そして、それが消えた現在、政府軍の運命も風前の灯だった。
驚くべきことに、この期に及んでも、学生の徴兵免除は続き、軍の腐敗は続いていた.....。




駐カンボジア・アメリカ大使、ジョン・ガンサー・ディーンは、1975年の”エイプリル・フール”に、本国からの”悪い冗談”をもらった。

「カンボジアに、アメリカの基盤を築くべく、シアヌーク殿下(1970年に、外遊中のロン・ノルによるクーデターで国を追われた)を首都に呼び戻すという妥協的和平交渉を行っているので、撤退拒否。」

”エイプリル・フール”だからと言っても、冗談にも程がある。いったい、首都さえ満足に守れない国に、どれほどの基盤を築くことができるのか!。包囲され、空港さえ砲撃され、生活に必要なものさえ底を突いている状態で、どれほど長く持ちこたえられるのか!!。
連中が首都に侵攻したら、基盤はおろか、我々は、”帝国主義者”として八つ裂きにされてしまうだろう....それは、現実味を帯びている。なにせ、アメリカは、”米国の傀儡”を支援しただけでなく、国土を爆撃したのだから!。
実際、クメール・ルージュの残虐行為の話も頻繁に聞くようになった。もっとも、ロン・ノルの政府軍も、ベトナム系の住民を数珠繋ぎにして、殺害し、河へ投げ込むなんてこともやってのけるのだが....。


だが、4月11日、首都近郊のポチェントン空港が使用不能になった時、”冗談”ではすまなくなり、ようやく本国も動き出した。
シャム湾に展開する、アメリカ海軍第76機動部隊に、カンボジア在住のアメリカ人、外国人、雇用関係にあるカンボジア人と家族の救出命令が出された。強襲揚陸艦”オキナワ”などの艦載ヘリコプター53機と360人の海兵隊員を、プノンペンの米大使館、南ベトナム大使館など(ちなみに、この国もその2週間後に崩壊する)に派遣することになった。
すんでのところで、ディーン大使たちの”地獄”は過ぎ去った。4月12日のことである。

だが、このときでさえ、まだ、映画”キリング・フィールド”の主人公のモデルとなった、シドニー・シャンバーグを始めとする外国人ジャーナリストを含む、約700人の外国人が残留し、フランス大使館に立てこもった。そして、その後のプノンペン市民の”地獄”を目の当たりにするのである。


4月16日、戦闘は終わり、翌日、クメール・ルージュがプノンペン市街に足を踏み入れた。粗末な黒い農民服にギンガムチェックのスカーフを頭に巻き、ライフル銃やロケットランチャーを肩に担いだ彼らは、まだ10代後半から20代前半ぐらい。ロン・ノル政府軍に勝利したにも拘らず、少しも笑みを浮かべず、刃物のように冷たく、鋭利な視線を市民に投げかける。
市民たちは、その冷たい視線に、自分達の未来を見たのだった。





More »



~攻撃708(飛行隊)の連中が出撃準備中、宇佐基地で空襲にあって、壊滅した時に、俺たちの運命も決まったのだろう。いや、この飛行隊が開隊したときから、本当は決まっていた。~




昨夜、どうにも眠れなかった。あと数時間後には、俺はこの世にはいないだろう。
ただでさえ鈍重な一式陸攻に、あんな飛行機の成れの果てみたいなもん
を載せて昼間出撃なんざ、グラマンに食われるだけさ。アレは、最近じゃ、夜間にしか作戦できないのに。
本部は、100機の掩護機を出すといったが、最近の戦闘機隊の練度じゃどうかな?。その掩護機も先日の空襲の迎撃で、かなり損耗しているって話だ。
なのに、あのオッチョコチョイ、無理な作戦を引き受けてきやがって.....。
もっとも、その無理な作戦のために、去年の十月から訓練してきたんだけどよ。燃料も不足してっから、満足に編隊訓練や、掩護機との連携訓練さえできなかった。
でもよ、しかたねえのかな。あいつも俺も軍隊だ。命令にゃさからえない。迷惑千万だが、やっぱり飛ぶしかないんだよな。
昨日、桜花隊の若いのに、
「クソの役にもたたねえ特攻なんか、ぶっ潰せ!。」
なんていってみたが、あいつの階級じゃどうにもなるわけねえよな。どの道、アイツも死ぬんだ。

兄貴は、国の柱石たろうと決起し、国賊となって死んでいった。
俺は、なんとか”英雄”ってものには、なれそうだ。まあ、いくら”英雄”でも、死んじまっちゃあオシマイさね。
オヤジも迷惑だったろう。兄貴は国賊、俺は特攻で死んじゃあよ。
妻やボーにもすまないことになった。俺がこんな商売やっているから、満足に一緒にいてやることもできなかった。



「隊長、出撃時間です。」

従卒が呼びに来た。

さあ、いっちょやってやるか........。無理な作戦でも、意味もない死に方だけはしないようにな。で、ないと、死んでいく俺の部下にも申し訳がたたねえ。

俺は、隊長室を後にした。










朝、何気なくTVをつけてみると、トリノ五輪の女子ショートトラック1500mの8~13位決定戦のB決勝がやっていた。見ると、神野選手がここに出場するようだ。とりあえず見ていると、最終周で勝負した神野選手、2位に上がり、そのままゴール!!2位(全体の暫定9位)。おお、頑張ったな。彼女の健闘をたたえていると、今度は決勝である。
そこで、息をのんだ。韓国選手が3人も進出しているではないか!。ショートトラックは、身体能力もさることながら、位置取り、スパートのタイミングといった戦術も重要な競技で、見ていて非常に面白い競技である。しかも、同国勢が3人も進出しているということは、個人競技でありながら、”チーム”で戦うことができ、非常に有利である。韓国選手が金メダルを取るのはほぼ確定的である。問題は、誰が取るのかということである。ところで、私は、そのうちの一人が世界選手権をとったことしかよくわからない(テロップで分かった)。というか、誰が誰だかわからないことは、伝えておこう。
スタートして数周は、まあ位置取りが重要。そこでも、韓国勢のうち二人はいい位置を確保し、ペースをコントロール。とはいっても、序盤で先頭でも勝てるとは限らない。そして、残り一人は、最後尾付近に虎視眈々と温存....。だが....残り2周を切ったとき、彼女が猛然とダッシュ。大外から一気にまくる。その時点でのトップは韓国勢の二人。他の選手をきっちりコントロール。そのすぐ後ろの中国選手(王濛)、ロシア選手は、前をがっちり固められて、動くに動けない。そうしているうちに、”最後尾の彼女(陳善有?)”が、スルスルと出てきて、最後の最後で先頭に出て、韓国の1、2、3フィニッシュ。私は、興奮した。自国の選手ではないのに!。その後、判定で3位の選手(でOK?)とロシア選手が失格した(神野選手、7位入賞!!)のだが、誰の目にも、”韓国チーム”の完勝であったことは明白だった。うがった見方をすると、その失格すら予定されていたのでは?。とすら思える。もちろん、汚い手を使ったから勝ったのではない。チームの戦略と育成がしっかりし、(だから、決勝に3人も残ったのだ。)、そのため、個人競技にも拘らず、チームで一体で戦うという戦術が取れたのだ。
実に素晴らしい勝利だった。

More »



« BACK  | HOME |  NEXT »

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks

Profile

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。