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広告の裏にでも書くようなことを書くブログですね。

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NHKが受信料未払いの件で、訴訟を起こすみたいだけど、何万人に?。
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まさに、大輪の花とはこのことをいうのでしょうか。
なにげにアクセス解析を見てみると、なにやら、アクセス数が急に増えている。そう大した数字ではないのだが。

で、何にみんな引っかかっているのだろうか?と思ったら、どうも、去年の5月にあげた、本庄市児玉の正楽寺前の瑠璃ボタン園の記事だった。
TVで放送でもしたのかな.....?。

みんな軒並みそんな感じで検索掛けている。私のつたない写真と記事が役に立ったかどうかわからないが、私が感じたように、そこのボタンを楽しんでくれればいいかと思う。

私のブログに固定の読者はいない。ほとんど検索をたどってきてくださる。実にありがたいことです。


プロ野球の読売ジャイアンツは、5月2日の対中日5回戦で、5-3で勝利。創立以来公式戦通算5000勝を記録。
ちなみに初勝利は、1936年7月の対大東京戦。創立以来の通算成績は、通算8777試合で3514敗263引き分け。

読売ジャイアンツは現存する日本最古の球団なわけなのですが、別に単に長く続いただけではなく、先人たちの努力と汗の結果であることは言うまでもありません。

長い間、球界の盟主として君臨してきた弊害も多々あります。それゆえ、離れたファンも多いことでしょう。ですが、この業績に関しては、手放しで賞賛したいと思います。


次は、当然、近年再興されたあの球団ですね。期待しております。

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そして4月19日、北ベトナム軍は、中央高原から侵攻してきた第2軍団の3個師団を加え、計6個師団で再攻撃。さすがに、これは守りきれなかった。
4月20日、数万の避難民とともに、第18師団と増援部隊は強力な圧迫を受けつつ、ヘリなどで、撤退した。

頼みのアメリカ軍は、1973年のパリ会談に伴い撤退している。時のフォード大統領は、議会に支援を要請するも、議会は拒否しただけでなく、全ての援助を打ち切った。


北ベトナム軍の砲撃を受け、空港は飛行機の離着陸が困難になった。
直前まで大統領だった、グエン・バン・チューをはじめとする政府、軍高官らは、危機が迫ると、口では勇ましい言葉を吐きつつも、われ先にヘリでアメリカに逃亡した。中には、アタッシュケースに金塊を詰めていた者も。
まだ必死の戦闘は続いているのに.......。



その後、消耗しきった第18師団は、残った他の4個師団とともに、サイゴン近郊で再編成され、防衛に当たったが、もろくも崩壊。結局、4月30日に南ベトナム軍は全面降伏し、レ・ミン・ダオは捕虜となり、再教育キャンプに収容された。



かつて100万人の軍隊を持ち、国際的にも認められた、南ベトナム~ベトナム共和国~は、幻となってしまった......。





4月に入り、南ベトナム側の首都サイゴンが、とうとう北ベトナム軍が誇る中国製の130mm砲の射程圏内に入った。

レ・ミン・ダオが、南ベトナム陸軍最後の精鋭部隊、第18師団を率いて、最後の砦スアンロクに立てこもったのはそんなときだった。

スアンロクは、サイゴン近郊の海岸地帯の都市。サイゴン40km。車でたった1時間の距離というだけでなく、サイゴンから伸びる国道1号線と中央高原から伸びる国道20号線の合流点になる交通上の要所である。南ベトナムの失策は、ついに、そんなところに防衛線を張らねばならなくなってしまったのだ。もちろんここが陥落したときは、まさに最後である。

南ベトナム軍は、ギネスブックに、”史上最悪の軍隊”(首都圏防衛に当たることになる第25師団)に載るほどひどい軍隊だった。戦意は乏しく、レンジャー部隊や空挺師団など一部の精鋭を除くと、立派なのはアメリカ製の装備だけ。当然、出撃はそのまま敗北を意味するほど。アメリカの支援無しには、到底持ちこたえられなかった。

北ベトナム軍は、このスアンロク攻略に、カンボジア付近にいた第四軍団(3個師団兵員約3万名)を投入。数十両の戦車を押し立てて一気に勝負をかけた。4月9日のことである。今までの勢いにのれば、1日でかたがつくだろう....。

だが、南ベトナムのほとんど唯一の”猛将”レ・ミン・ダオが率いた”精鋭”第18師団は、ほぼ3倍の敵に対し、必死の防戦を展開した。
「ココを取られたら、そのまま、帰る祖国がなくなる。」のだ。

今までの勢いをとめたくない、北ベトナム軍は、次々に新手を投入。損害を無視して力押しに押した。
南ベトナム軍もここぞとばかりに、レンジャー部隊、空挺師団をヘリで急遽投入。まだ健在のビエンホア、タンソンニュエトの空軍基地から地上攻撃機を出撃させ、一歩もひかず守り通す構え。

激戦の末、4月13日ついに攻撃側が、多数の遺棄死体と戦車の残骸を残し撤退を始めた。とりあえず、守りきった。

この勝利の報を聞いたサイゴンは、おおいに沸いた。

「レ・ミン・ダオがいれば、なんとかなるんじゃないか?。」

もちろん、攻撃側は、軍勢を再編成しただけであり、実は、いまだに危機的状態であることには変わりがなかった。
そして、第18師団には、予備兵力なるものは、なかった.....。


「あの日の凱歌は幻だったのだろうか........。」


レ・ミン・ダオは、アメリカ、ニュージャージー州の自宅で、一人つぶやいた。1994年、長い再教育キャンプ生活から解放され、妻子の住むアメリカへの出国許可がおりた.....が、妻はすでに別の男性と再婚。子供と一緒に暮らすも、一人の時間がむなしく流れた。


1975年3月、北ベトナム軍は、国境非武装地帯とプレイクに陽動攻撃を加えた。”春の攻勢”である。これを本格的攻勢とみた南ベトナム軍は、突然、戦略上の要地、バンメトートを含む中部高原を放棄した。理由としては、防衛線を南にまで下げ、防衛力を強化するという、戦略的な撤退であったが、この国の常として、現地部隊に十分な説明がされず、取るもとりあえず武器を捨て、裸足で”逃げ出した”というに等しい状態に陥った。さらに、追い討ちを掛けるかのように、約40万人の避難民が逃げ惑った。

終りの始まりである。

その後の南ベトナムの運命は、まさに雪崩のごとく。
3月20日、ビンロン省アンロク陥落。3月26日、テト攻勢の際、激戦地となった古都ユエ陥落。そのとき、南ベトナムの重要な根拠地ダナンは、守備隊がそのまま暴徒となり、市民を巻き込んだ大混乱の末、我先に海軍の艦船で逃げ出した。

そのころ、サイゴンでは、あらゆる手段を使って、国外に逃げ出そうとする人が続出。ある者は、外国人と書類上の結婚をし、ある者は、賄賂を使って、なんとか出国許可を取ろうとしていた。
だが、街ではそんなことがなかったかのごとく、普通の生活も続いていた。レストランや商店では、人がごった返し、映画館には行列ができていた。





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