Turn the page

広告の裏にでも書くようなことを書くブログですね。

«|2017-10|12345678910111213141516171819202122232425262728293031|»
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


そして4月19日、北ベトナム軍は、中央高原から侵攻してきた第2軍団の3個師団を加え、計6個師団で再攻撃。さすがに、これは守りきれなかった。
4月20日、数万の避難民とともに、第18師団と増援部隊は強力な圧迫を受けつつ、ヘリなどで、撤退した。

頼みのアメリカ軍は、1973年のパリ会談に伴い撤退している。時のフォード大統領は、議会に支援を要請するも、議会は拒否しただけでなく、全ての援助を打ち切った。


北ベトナム軍の砲撃を受け、空港は飛行機の離着陸が困難になった。
直前まで大統領だった、グエン・バン・チューをはじめとする政府、軍高官らは、危機が迫ると、口では勇ましい言葉を吐きつつも、われ先にヘリでアメリカに逃亡した。中には、アタッシュケースに金塊を詰めていた者も。
まだ必死の戦闘は続いているのに.......。



その後、消耗しきった第18師団は、残った他の4個師団とともに、サイゴン近郊で再編成され、防衛に当たったが、もろくも崩壊。結局、4月30日に南ベトナム軍は全面降伏し、レ・ミン・ダオは捕虜となり、再教育キャンプに収容された。



かつて100万人の軍隊を持ち、国際的にも認められた、南ベトナム~ベトナム共和国~は、幻となってしまった......。



スポンサーサイト


4月に入り、南ベトナム側の首都サイゴンが、とうとう北ベトナム軍が誇る中国製の130mm砲の射程圏内に入った。

レ・ミン・ダオが、南ベトナム陸軍最後の精鋭部隊、第18師団を率いて、最後の砦スアンロクに立てこもったのはそんなときだった。

スアンロクは、サイゴン近郊の海岸地帯の都市。サイゴン40km。車でたった1時間の距離というだけでなく、サイゴンから伸びる国道1号線と中央高原から伸びる国道20号線の合流点になる交通上の要所である。南ベトナムの失策は、ついに、そんなところに防衛線を張らねばならなくなってしまったのだ。もちろんここが陥落したときは、まさに最後である。

南ベトナム軍は、ギネスブックに、”史上最悪の軍隊”(首都圏防衛に当たることになる第25師団)に載るほどひどい軍隊だった。戦意は乏しく、レンジャー部隊や空挺師団など一部の精鋭を除くと、立派なのはアメリカ製の装備だけ。当然、出撃はそのまま敗北を意味するほど。アメリカの支援無しには、到底持ちこたえられなかった。

北ベトナム軍は、このスアンロク攻略に、カンボジア付近にいた第四軍団(3個師団兵員約3万名)を投入。数十両の戦車を押し立てて一気に勝負をかけた。4月9日のことである。今までの勢いにのれば、1日でかたがつくだろう....。

だが、南ベトナムのほとんど唯一の”猛将”レ・ミン・ダオが率いた”精鋭”第18師団は、ほぼ3倍の敵に対し、必死の防戦を展開した。
「ココを取られたら、そのまま、帰る祖国がなくなる。」のだ。

今までの勢いをとめたくない、北ベトナム軍は、次々に新手を投入。損害を無視して力押しに押した。
南ベトナム軍もここぞとばかりに、レンジャー部隊、空挺師団をヘリで急遽投入。まだ健在のビエンホア、タンソンニュエトの空軍基地から地上攻撃機を出撃させ、一歩もひかず守り通す構え。

激戦の末、4月13日ついに攻撃側が、多数の遺棄死体と戦車の残骸を残し撤退を始めた。とりあえず、守りきった。

この勝利の報を聞いたサイゴンは、おおいに沸いた。

「レ・ミン・ダオがいれば、なんとかなるんじゃないか?。」

もちろん、攻撃側は、軍勢を再編成しただけであり、実は、いまだに危機的状態であることには変わりがなかった。
そして、第18師団には、予備兵力なるものは、なかった.....。


「あの日の凱歌は幻だったのだろうか........。」


レ・ミン・ダオは、アメリカ、ニュージャージー州の自宅で、一人つぶやいた。1994年、長い再教育キャンプ生活から解放され、妻子の住むアメリカへの出国許可がおりた.....が、妻はすでに別の男性と再婚。子供と一緒に暮らすも、一人の時間がむなしく流れた。


1975年3月、北ベトナム軍は、国境非武装地帯とプレイクに陽動攻撃を加えた。”春の攻勢”である。これを本格的攻勢とみた南ベトナム軍は、突然、戦略上の要地、バンメトートを含む中部高原を放棄した。理由としては、防衛線を南にまで下げ、防衛力を強化するという、戦略的な撤退であったが、この国の常として、現地部隊に十分な説明がされず、取るもとりあえず武器を捨て、裸足で”逃げ出した”というに等しい状態に陥った。さらに、追い討ちを掛けるかのように、約40万人の避難民が逃げ惑った。

終りの始まりである。

その後の南ベトナムの運命は、まさに雪崩のごとく。
3月20日、ビンロン省アンロク陥落。3月26日、テト攻勢の際、激戦地となった古都ユエ陥落。そのとき、南ベトナムの重要な根拠地ダナンは、守備隊がそのまま暴徒となり、市民を巻き込んだ大混乱の末、我先に海軍の艦船で逃げ出した。

そのころ、サイゴンでは、あらゆる手段を使って、国外に逃げ出そうとする人が続出。ある者は、外国人と書類上の結婚をし、ある者は、賄賂を使って、なんとか出国許可を取ろうとしていた。
だが、街ではそんなことがなかったかのごとく、普通の生活も続いていた。レストランや商店では、人がごった返し、映画館には行列ができていた。





この機関車が、初めて日本の地を踏んだ時、そこには、輝かしい未来しかなかった。

秩父鉄道デキ5型


秩父鉄道は、1922年、国内としては、かなり早い段階に電化が完了した。当時、国内では、電化されている区間は、国鉄信越本線横川~軽井沢間、首都圏の一部ぐらいしかなかったので、かなり思い切った決断だった。
その際、当時から行われていた、秩父市の武甲山から産出される石灰輸送用に、アメリカの大手電機メーカー、ウェスティングハウスで新製されたのが、この、デキ1型。(ちなみに、この画像は、デキ5号機)

デキ1型は、国内初の幹線用の大型機で、当時、東海道本線の電化をもくろんでいた国鉄の注目とされるところとなり、組み立ては、国鉄大井工場で、同型機5両全て組み立てられた。
その際に学んだことは、後の電気機関車の製造に大いに役立ったとか。

その後、武甲山の石灰輸送だけでなく、1923年に創立した秩父セメントのセメント輸送などの貨物輸送に広く使われたが、より強力なデキ100型などが増備されるに伴い、次第に、入れ替え、小輸送、予備機扱いになり、デキ3~5号車が1984年に廃車。デキ1号車が1988年12月、最後のデキ2型は、実に1994年11月30日まで車籍が残っていた。

現在、デキ1号機は、秩父鉄道の終点三峰口駅の車両公園に留置、2号車は、広瀬川原の車両基地に、3、4号機は、資材会社の所有物となり、秩父線から見える場所にレールをつけて管理しているとの事。


そして、5号機は........朽ち果てるのみ....。

More »



この訴訟を起こした先生方に質問なのですが....

みなさんの愛車には、日の丸ステッカーなんかついてませんよね?。

みなさんは、日の丸弁当なんか食べませんよね?。そうそう、そうでなくても、ゴハンの真ん中に梅干があるのも、無理ですよね。国旗を連想しますよね。

もし、私が同僚の先生だとして、聞いて欲しいのですが、国旗と国歌を尊重したいのに、あなた方は、国旗を引き摺り下ろしたり、国歌斉唱のとき、着席し、国歌を歌わなかった。それによって、私は、非常に精神的苦痛を受けた、として、裁判をおこしたら、どう思いますか?。


で、ところで、皆さんは、都立高校の先生ではないのでしょうか?。
いったい、誰が給料はらっているのでしょうかね?。

もし、指導要綱に納得できないのなら.....教員を辞めて、政治家になってみたらどうですか?。都政に直接参加して、訴えてみてはいかがでしょうか?。
もしくは、自分で、学校を作って、教育されては?。

今のあなた方は、都の教職員でしょう?。

More »



 | HOME |  NEXT »

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks

Profile

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。